多系統萎縮症だった母〜その死と希望〜

2019年10月28日、母が亡くなった。

今年最後のブログは母の闘病生活、死、そして母という1人の人間について綴ってみようと思う。

ここに記すのは個人的な記録であり、ある難病についての啓蒙でもあり、そして母への手紙である。

 

 

2010〜11年頃、母の日常生活において、例えば自転車で転びそうになるとか、包丁が上手く扱えないとか、そんな現象が頻出するようになり、病院で検査したところ「多系統萎縮症」と診断された。

正確にはこの時点では「パーキンソン病」と診断されていた。

 

当時の僕は「星の子プロダクション」という似顔絵会社に所属して間もない頃で、千葉で一人暮らしをしていたのだが、例えば「アクアシティお台場」や「浅草花やしき」なんかで仕事するときは実家のほうが近いので、自分のスケジュールに合わせて月5〜6回は実家に帰り寝泊まりしていた。

 

いつものように用意してもらった夕食を食べていると姉から「お母さん、難病って聞いた?」と言われた。

「難病?」

「パーキンソン病だって」

なんとなく聞いたことがある。すぐにケータイで調べてみると「体が動かなくなって、最後は食べることも出来なくなって死に至る」という漠然な情報が入ってきた。

確かに最近姉は母に対して「お母さん、なんか動きがおばあちゃんみたいだよ?」と言っていた。

やはり母は病気だったのだ。

 

ほどなくしてお風呂から上がってきた母に「難病なの?」と訊くと「らしいよ」というニュアンスの返事があっけらかんと帰ってきた。

「いや、何で言わないの!?聞いてないんだけど!」と僕が言っても要領を得た返事は帰って来なかった。

父もすぐ隣の部屋でテレビを見ていたが、特に話に入ってくる風でもなかった。

 

今思えば、この「何も言わない」というのが、母という人そのものを表していたように思う。

 

小さい頃から、僕は母が怒ったところをほとんど見たことがない。

イライラしたり八つ当たりしたところを見たことがない、と言った方が正しいだろう。

「サザエさん」のフネさんの佇まいがイメージに近い。

フネさんを見るたびに、なんとなく母を思い浮かべてしまうほどだ。

 

ある程度大人になってからふと思ったことがある。

「母は僕ら子どもたちの前では、母以外の何者でもなかった」ということ。

それはものすごいことなんじゃないか?

 

母だって一人の人間だ。親である前に個人なのだ。

しかし母はその「個人」を、少なくとも僕ら兄弟(兄、姉、僕)の前では一切出さなかった。

疲れてるときについ子供に当たってしまうとか、イライラした態度を表に出すとか、自分の都合で理不尽に子供を叱るとか、そういうことは何一つなかった。

いつだって穏やかで、優しく、生真面目すぎて損ばかりするような人であり、その反面、主張するときは主張できる強さも併せ持っていた。

 

 

母の病気は、当然だが、年々進行していった。

初期症状として、支えがないと立てないようになり、自分一人では歩けなくなっていた。

手は小刻みに震え、字も書けなくなっていた。

2015年頃までは、まだ電話で話せるくらいには顔の筋肉も動いていたが、たまに呂律が回らないようなときがあった。

食事はなるべく柔らかいものを、時間をかけてゆっくりゆっくりと食べていた。

 

日に日に、そして確実に人間としての機能と尊厳を奪われていく母を見るのは辛かった。

母の境遇と未来を考えると恐ろしくなり、僕自身が朝まで寝付けないという日がたまに訪れた。

 

母はこれからどうなってしまうのだろうか?

今、どんな気持ちで夜を過ごしているだろうか?

オレは母に何かするべきじゃないのか?

 

そんなことを考え、言い知れぬ不安に襲われる夜が幾度となくやってきた。

それでいて夢の中に出てくる母は決まって元気で「なんだ、普通に話せるようになったじゃん!」なんて安心するのだ。そして目が覚めると残酷な現実を再認識させられる。

 

 

結論から言えば、僕は母に対して、最後まで何もしなかった。

病気や介護に関しては父が全てを担っていた。

父に押し付けたとかではなく、自然な流れでそうなった。

というよりは、親が子どもの負担になってはいけない、という両親の考えが根底にあるのだと思う。

病気発覚のときもそうだし、良きにつけ悪しきにつけ、親と子で明確な線引きがされている、というのが我が家の空気感なのだ。

 

父は病気のことを必死で勉強し、文字通り24時間体制で介護を続けた。

父はワンマンなところがあり、僕はそんな父をかなり苦手としていた。中学に入ってからはほとんど会話もしなくなっていた。

そんな父が母の介護をするのだ。僕ら子どもたちの出る幕はない。病気に関して何か知識を得たところで、父と反目し合うのがオチだ。

だから、そう、だから敢えて僕は母の難病について勉強しないのだ…。

 

そんな言い訳が苦し紛れなのは重々承知していた。きっと僕は、考えたくなかったのだ。単純に現実から目を逸していただけ。

 

それでも、自分がどうすることで母が喜ぶか、なんてことを漠然と考えていた。

やはり一人前の男として自立した自分を見てもらうのが一番ではないか、と思った。

 

当時の似顔絵の仕事はとてもじゃないが「一人前の男」とは言えなかった。

あちこちの現場に赴き、場所によっては通勤片道2時間超えなんてこともザラで、しかも完全歩合制だ。

朝の7時には電車に乗り、県を跨ぎ、往復4時間かけたのに客はゼロ、帰宅出来たのは夜11時、なんてことは全然珍しくもない。ゼロどころか交通費でマイナスである。

どんな売れっ子だって、平日のショッピングモールでは描けないときは描けないのだ。

 

歩合と言うと自分の努力次第というイメージがあるが、おそろく会社でトップの売上を誇る似顔絵師でも同世代のサラリーマンとトントンか少し低いくらいだと思う。

僕自身が上位にいたので、そのあたりの計算は間違ってはいないだろう。

 

そういった経緯、そしてバックボーンもあり、僕は独立した。

 

もちろん独立すること=ステップアップではない。

実際、母には「辞めてどうするの?」と不安がられた。

「今のままじゃ天井見えてるから。何か、事務所に意見して嫌われてるし。だったら独立してフリーで仕事した方がいいでしょ」とだけ言っておいた。

 

そもそも大学卒業後に就職もせずに30近くまでフリーターをしていた…させてもらっていたのだ。

そんな自分が人並みの30代男性たちに追いつくためには、独立して自分で仕事をするしかなかった。

その選択が正しかったのかどうか、今もってその答えは出ていないが、結果的には母には最後まで心配させてしまったのだと思う。

 

 

2年ほど前、事情を知っている中学からの親友に、僕はこんなことを言った。

 

「お母さんが死んだらさ、そのときオレは泣く資格なんてあるのかな。だって、もう先は長くないじゃん。分かってるじゃん。それでも、何もしてあげてないんだよ。生きてる間に何かしてやれよって、それすらしないなら死んだとき泣くんじゃねーぞって。」

 

自分で言った言葉だが、妙に印象に残っている。

ほとんど会話すら出来なくなっていた母に対して、何をどうしてあげたら良いのか分からなくなっていたのだ。

「顔を見せるだけで喜ぶ」なんて言う人もいるだろうし、確かにその通りだろう。

でも、黙って車椅子に座っている母に対して、どんな感情を持ってして接すればいいのか?

もどかしい会話に余計にストレスを与えないだろうか?母の前で食事したら羨ましいと悲しむだろうか?テレビで元気に歩いている同世代かそれ以上の人が映ったとき、母はどんな気分なんだろうか?それともそんな諸々を僕が考えてしまうこと自体、母にとっては辛いのではないか?

そんな逡巡が実家への足取りを重くさせた。

 

さらに親友にこう続ける。

「それでもさ、心のどっかで、お母さんはまだ死なないって思ってるんだよ。この期に及んでも、親が死ぬわけないって思ってるんだよ。」

 

自分の想像力の貧困さに辟易していた。

そして、やはり最後の最後まで、僕には母に寄り添えるような想像力も優しさも無かったのだと思う。

 自分はどうすればいいのか?ただそれだけで終わった8年だった。

 

その昔、母の病気がその片鱗すら現れていなかったころ、こんな会話をしたことがある。

冗談というかコントのような感じできつく当たる僕に対して母が「もうちょっと親を労わりなさいよ」と言う。

それに対して僕が「あのねえ、労わられたらお終いよ?オレがすげー優しくなっちゃったらね、それはもう“年老いたおばあちゃん”ってことだから。だから“ババアてめえ”って言われてるうちが花なの!」と返す。

母は笑いながら「ババアはやめなさい!」と言う。

 

結局、母に対して、僕のこのスタンスが変わることはなかった。

元々、誕生日や母の日なんかで何か特別なことをしてあげる習慣が無かったので、病気だから、死が近いから、急に今までやってこなかったことをするというのも違和感があった。

それこそ「労わられたら終わり」なんて軽口がずっと頭に残っていた。

 

母には感謝の気持ちでいっぱいだ。それを直接言葉にして伝えるべきでは?

でも「ありがとう」なんて言った瞬間、何かが終わってしまう気もした。

 

会えばいつも優しく微笑んでいた母。

父には「死ぬのが怖い」と漏らしていたそうだが、やはり最後まで僕にはそういう面は見せなかった。

だから…というと言い訳になるだろうか。

僕も母の前では「普通」でいることにした。必要以上にお茶らけていたときもあった。

今さら言葉にしなくても母には伝わっているはずだ、という思いもあった。

 

「孝行したいときに親はなし」と言うが、僕の場合その猶予は十分にあった。

孝行かどうか分からないが30数年分の「ありがとう」くらいは伝えられたはずだった。

でも、しなかった。

そのことを後悔するなよ。ずっとそう思いながら、そしてとうとう今年、その日を迎えた。

 

後悔はしていないが、やはり母にとってはなにかしらの言葉なりが欲しかったのではないか。そんな風には思う。

「言わなくても伝わってる」なんて思うのは僕の独りよがりでしかなかったのではないか?

 

こんな仕事をしていると、自分がしてこなかった「家族への誕生日プレゼント」とか「親の結婚祝い」というものに触れる機会が多い。

自分がほとんどやったことがないのに「お母さん、いつもありがとう」なんて似顔絵を作っている。

そんな依頼のときにお借りする写真はどれもとても幸せそうで、素直に素敵だなと思う。素晴らしいと思う。

親に限らず、何かを伝えたい相手がいるのなら、伝える機会があるのなら、やはり言葉や形にして渡すべきなんだと思う。

振り返ってみれば、今年はこのブログでも「お客様の思いを形にします」なんて書いていた気がする。特に意識していたわけではないが、なるほど、こんな経験や気持ちを味わってきた自分だからこそ出来る表現があるのかもしれない。

 

 

母がこんな難病になってしまったことで、僕の人生観に少し変化が生じた。

第一に、当たり前だが「親は必ずいなくなる」ということ。

第二に、「家族」という存在そのものに対する考え方。

皮肉なことだが、母が病気になったことで父と連絡する回数が自然と増え、10代20代の頃とは比べ物にならないくらい会話が出来るようになった。

そしてその会話の端々に、僕ら子どもに対する愛情や優しさを感じることが出来た。

10代の頃は大嫌いで、20代の頃は好きでも嫌いでもないと思っていた父。

今、父に対して思うのは、とにかく「親」なんだなと。

それ以上でもそれ以下でもない。掛け替えのない親なんだと。そんな風に思うようになった。

 

僕にも娘が生まれ、11月で1歳になった。

教育方針など特にないが、ひとつふたつ決めていることがある。

「感情に任せて接することはしない」ことと「親が子の負担になってはいけない」ということ。

前者はもちろん母から受け継いだ精神。後者はたった一人で母の介護をしていた父の背中を見て学んだことだ。

 

母は亡くなったが、喪失感は無かったし、今もない。

最後は声まで失われ、人としての尊厳はほとんど全て奪われたようなものだった。

そんな状態でこの先5年、10年と生きたところで、それは死よりも辛いことではないのか?ある意味では、やっと楽になれたのではないだろうか…。

そんな思いが今でもあるからだ。

そして、そんな風に思わせてしまう「多系統萎縮症」という病気が本当に恐ろしい。

病気自体も、病気があまり知られていないことにも。

そう、医療関係者にでさえ。

 

ここからは多系統萎縮症の患者やそれを支える家族の皆様、そして医療関係に携わっている全ての人にご一読いただきたい部分である。

 

10月28日の午前10時頃、都内のとある巨大な大学病院の病室で母は息を引き取ったのだが、信じられないことにその瞬間を誰も見ていない。

端的に言えば「気が付いたら死んでいた」のだ。恐ろしい言い方だが、事実である。

 

何時何分に心停止したのか?医療スタッフの誰一人としてその瞬間を知らない。

 

このあたりのいきさつ、そしてリアルタイムではないが父が自身で介護の様子を綴ったブログがあるので是非読んでいただきたい(下のリンク)。

 

妻と私と多系統萎縮症(妻亡きあと)

 

同じような病気で苦しんでいる方々には「まだまだ世間からは理解されないていない病気」という現実を感じとっていただきたい。

ここで言う「世間」とは医療界も含めて、である。

 

そして…ブログ内で父が綴っているように、医療に携わる方々には、我々家族のような後悔のさせ方を他の人に味わわせないでほしい。

専門家が専門分野しか診ないのは分かる。なるべく感情を排して、患者にあたるというのも理解できなくはない。

だけど、今回の事件は(あえて事件というが)、もっと根本的なところに問題があったのではないかと思えて仕方ないのだ。

「人が人を見ていない」その一点に尽きる。

おざなりな医療体制そのものは言うに及ばず、母の死後二度に渡って病院に赴き、医師たちと数時間話した僕がリアルに抱いた感情でもある。

 

大学病院の名前を実際にここに書きたいくらいだ。東京の中枢にある、それはそれは立派な大病院とだけ言っておこう。

(母の遺体はすぐ解剖されることになった。所見では直接的な死因は不明。今後半年~1年かけて原因究明をすることになっている)

 

 

8年、9年闘病し続けた母の最期は、そんな病室だった。

 

 

最後に。

人生観の話で、もうひとつ生まれた考え方がある。

 

自分だけは死なない。恋人とずっと幸せに生きていける。ウチの家族に突然の不幸なんてない。

みんな、心のどこかでそんな風に思ってるんじゃないだろうか?

 

でも、「突然」「なにか」は起こる。

どんなに清廉潔白な人生を送っていても病気にはなるし、そこに因果なんてものはない。突然人生が終わっても何の不思議もない。

 

だから、生きるのって辛い。怖い。悲しい。

では、どんな希望を抱けば少しでも明るく生きていけるだろうと考える。

 

この残酷で理不尽でカオスな世界に光を見出すとしたら、それは「繋がる」ということではないだろうか。

ちょっとした言葉、行為、行動…それが巡り巡って誰かの幸せに繋がるかもしれない。

もちろん不幸の連鎖という場合もあるだろうが、とにかく人は、人だけでなく全ての事柄は、繋がっているのだ。

そこに希望を感じさえすれば、なんとかやっていけるような気がするのだ。

 

そういう意味では、死は終わりではなく、希望と言えるかもしれない。

 

僕は「宗教入らない教」の熱狂的な信者なので、幽霊になった母に会うなんてことはないだろう。母が千の風になって大きな空を吹き渡っているなんて考えも毛頭ない。

母にはどう転んでも、例え僕自身が死んでも、会うことは叶わない。

 

よく「あなたが死んでも、みんなの心の中で生きています」なんてセリフがあるが、僕はそれを安っぽい価値観だと思っていた。

でも、今なら少し分かる気がするのだ。

 

母からもらった強さと優しさを、僕は娘に繋げようとしている。

そんな無限の繋がりが何億年も昔から連鎖し、今のこの瞬間の世界を作っているのだと思うことが出来れば、なんとなく光を感じることが出来そうではないか。

 

もしかしたら…この文章や父のブログを読んだ方の中で何かが芽生え、その小さな小さな素粒子のような「何か」が他の誰かに伝わり、その繰り返しが何年、何十年、何百年と繋がり続け、いつか大きな希望を生むかもしれない。

 

ふとした瞬間、どこかで何かが繋がる。それが希望になる。

例えそのきっかけが死であっても。

 

そんな思いは、娘の名付けにも影響を与えた。

 

娘の名前は来花(ライカ)。

地球軌道を周回した最初の動物の名から受け継いだものだ。

 

 

 

 

あとがき

 

この文章は100%真実ですが、日記や独り言ではありません。

読み手を強烈に意識して文章を構成しています。

多少格好つけた書き方やレトリックもあるかもしれませんが、書いて発表するからには最後まで読んでいただかなくては意味がないので、読み物としてそれなりのものを目指して書き綴りました。

冒頭に「多系統萎縮症」への啓蒙などと書きましたが、ここまで読んでいただいた方にはお分かりのように、私にはその知識はほとんどありません。

上にもリンクを載せましたが、そのあたりのリアルな体験談は父がブログで綴っています。

 

この文章を通して何を伝えたいのか?何が書きたかったのか?自分自身でもまとまりきらない部分はありますが、読者それぞれの心に何かしらのカケラなりが引っかかってもらえたら幸いです。